最近のマイブーム: 歴史議論

今年のMBAクラスには57人の学生が居ます。アメリカ人だけでなく、南米、ヨーロッパ、アジア。世界中からUCSDに来ている学生は、多種多様な価値観を持っています。
昼休みに、韓国・台湾・中国の学生ら3人とランチを食べながら、アジアの歴史について話していました。韓国出身のリーは「以前、韓国人と日本人で歴史観の違いについて大喧嘩になったから、あまり話したくない」と不安な表情。台湾出身のシンディーは、「昔、南京の近くに住んでいた祖母から南京大虐殺の話を聞いて、その後は暫く日本製のものを買わなくなった。ペンテルとか (笑)」と明るい。中国人のエンは、アメリカ生まれアメリカ育ちだけど、UCSDに来る前の1年間、水戸の中学校に英語を教えに行っていたから、日本と中国とアメリカ3国の価値観がわかるとのこと。
それぞれが持つ価値観は、育ってきた過程で刷り込まれたもの。その人にとっての真実とは教科書、先生、家族、マスコミなどが「真実です」と言ったもの。
南京大虐殺の被害者の数ひとつを取っても、日本人が想定している数字と中国人が想定している数字はかけはなれている。広島に対する原爆攻撃は、中国系アメリカ人のエンにとっては「原爆のおかげで戦争を早めに終わらせられた」という素晴らしい行いだったし、日本人の僕にとっては、非戦闘民をに対する大量虐殺行為にしか見えない。自国語を剥奪され日本語を無理やり教え込まれた韓国人、日本語をよかれと思って韓国人に教えてあげた日本人。
歴史は歴史。その時代に生きていない僕らにとって、真実は闇の中だから。元々、認識にずれのある歴史について話し出すと、議論は半永久的に収束しない。
じゃあ、不毛な議論かというと、そうでもないんです。
4人で延々と話しているうちに、気付いたことがあります。
ひとつ。話し相手の出身国が、自国に対してどのような歴史的感情を持っているかを理解することが重要。ネガティブな感情を持っているなら、その気持ちを一個人として汲み取った上で、自分自身の意見、自分が教え込まれてきた「真実」について話せれば、議論が多少白熱しても喧嘩になることはありません。
もうひとつ。政治家達は、過去の戦争で行われた過ちを「政治カード」として使っているけれども、それは間違った歴史の使い方。歴史とは、過去の行いについて双方が話し合い、失敗から学ぶためのもの。同じような過ちを犯さないことで、争いをなくせるはずです。
過ち続きで。統計分析の教授がいい事を言っていました。
「全ての情報にはプラスの価値がある」
そこで反論した生徒:
「もし、付き合っている相手が浮気をしている、という情報を得たら?私は、自分の彼が浮気をしていても、それを知らなければ幸せに付き合い続けられたのに。」
「その通り、だが、それを知った上で、相手を許してより幸せになることだってできる。もしくは、その相手と別れて、別の相手との幸せを探すこともできる。いずれにしても、情報の価値はプラスだ。」
なるほどね。そしてもうひとつ。
「過去に蓄積されたデータには、悪いデータというものは存在しない。
全てのデータは、将来を最適化するための情報源だ。」
確かに。僕ら人間は、不本意にも過去に多くの「あやまち」を犯したり、嫌なことを経験してきた。いじめられたり、いじめたり、ふったりふられたり。恥ずかしい思い、悲しい思い、死にたくなるような辛い経験もしたかもしれない。それらのデータがあるからこそ、今の私がいて、そのデータは将来の私を形作るのに使える。
全ての情報は、将来的にプラスなのだ。
そして、全ての議論は、プラスの結果を生む力がある。
僕ら4人は、お互いのこと、相手の国のことをより深く理解することができたから。
不毛な議論などというものは、存在しない。はず。