(第三部からの続き)
第四部: 22日(金)9:15PM
気付くともう東京行き終電の時間で、駅のロッカーから荷物をバッグに移し変えているうちに時間ギリギリに。やばい!切符を買って、あかねと手短な「再見」の挨拶をして最終列車に飛び乗って自分の指定席に行くと人が座っている。あれ?なんとそれは最終列車ではなく、一つ前の列車だった。おっちょこちょいな自分。

困っていたら、指定席の一つ前の席に座っていた住職さんが「ここがあいてますよ」と手招きしてくれたので、横に座ると自然に会話が始まる。
「一つ前のに乗ってしまったのかな、でも一つ空いていてラッキーだったね。」
「ええ、今日午後一度凄くアンラッキーだったので。おみくじは末吉だったのに」
「・・・」
しばし沈黙後、住職さんの京都への用事の話や、様々な宗派の話をきく。浄土真宗と日蓮宗の違いとか、日本の多宗教への理解とか、アメリカ対イラクの宗教戦争とか。その中で、確か「うちの父方の実家は八百津の浄土真宗ですよ」と言うと、「ほう、それはもしかして○○寺ではないか?あそこの××住職とは1年違いでね」という、またまた奇遇な出会い。
「あなたと私は八百津の住職という縁があったんだね」と、住職さん。
慌てて新幹線を一つ前のに乗り間違えてしまったせいで、うちの曾爺さんが眠っているお寺の住職を知っている、名古屋の住職と話ができてしまった。そんな奇遇をとても嬉しく思い、「袖擦りあうも多生の縁ですね」と、僕。
「袖擦りあうも多生の縁」は、多生とも他生とも書くらしい。僕は今まで「他生」だと思っていて、輪廻転生のプロセスの中で今までの生、すなわち他生で縁があった人と現生でも出会う、という意味だと思っていた。でも、彼が言ってくれた説明の方がよりロジカルで、納得できる内容でした。
「『多生の縁』とは色々な解釈がある。一つの解釈では、長い人生の中で縁というものは多数生まれるということ。その中にはいい縁もあれば、逆縁もある。巡り合った縁を無駄にせず、いい縁を大切にすることを心がけていれば幸せに近づけますよ、ということを私達は説いています」とのこと。
最後に「頑張ってね」と、暖かい言葉をもらえました。名古屋到着間際であまり深くは話せなかったけれど、仕事やプライベートを通じた色々な縁、デジカメがもたらした2年ごしの縁を感じていたので、とても得した気分に。東京までの新幹線でこの文章を打つ間も左腕はかなり痛んでいたものの、金閣寺で大凶を引いていたらもっと酷い目に遭っていたかもしれない、怪我をしたおかげで色々楽しい思いができたかもと、なんでもいい方に考えられるように。

たったの半日で、左肘靭帯の軽い損傷と沢山の縁を感じた出張でした。
世の中って小さい。
